平泉は源義経の人生と深く関わりのある場所です。
- 義経と平泉の関わり
- 中尊寺金色堂周辺の義経由来のある場所
- 岩手県内外の義経・弁慶とかかわりのある場所
などをご紹介します。
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源義経と平泉の関わり
義経の生涯に深く関わる平泉
義経は生涯の中で2度、平泉で生活をしています。
波乱万丈にみちた義経の人生に平泉は欠かせない場所となりました。
一度目の平泉生活
幼い頃京都の鞍馬寺に預けられた義経は16才の時、僧になることを嫌がり平泉へと向かいます。
その際、藤原秀衡は義経を温かく迎えいれ青春時代を平泉で過ごします。
16才から6年間22歳までを過ごし、その後兄の源頼朝が兵をあげると平泉から駆け付けついには平氏を滅ぼします。
二度目の平泉生活と最期
源頼朝を助け平氏滅亡という功績を上げた義経でしたが、褒美として朝廷から役職をもらったことがもとで兄頼朝と険悪になります。
そして再度義経は秀衡のもとへ身を寄せました。29歳でした。
その後秀衡が亡くなり頼朝からの圧力に耐えられなくなった跡継ぎの泰衡は義経が妻子と過ごしていた衣川館をおそい自害させました。
青春時代を過ごした平泉で義経は最後の時を迎えることとなりました。
中尊寺金色堂周辺にある源義経ゆかりの場所
弁慶堂
中尊寺の参道「月見坂」の途中には弁慶堂があります。
堂内には弁慶と義経の像が安置されています。
弁慶堂の近くにある東物見からは、弁慶が矢を受け立ち往生しながら亡くなったと言われている衣川を見ることができます。
高館義経堂
高館義経堂は義経最後の場所で、弁慶が立ち往生して亡くなった場所でもあります。
堂内には義経の像が安置されています。
高館義経堂から少し離れますが、千手院に残る石塔は義経妻子の墓だと伝えられています。
弁慶の墓
中尊寺の参道「月見坂」の入り口近くには弁慶の墓があります。
あまり存在を知られていないようなのですが、ぜひ立ち寄ってみて欲しい場所です。
松の根元の石が弁慶の墓と言われており、そばには中尊寺の僧が弁慶の事を詠んだ句碑が建てられています。
源義経公東下り行列
毎年ゴールデンウィークには、義経が頼朝から逃れ平泉に来た様子を再現したと言われる「源義経公東下り行列」が行われています。
毎年義経役は人気若手俳優が務めていて、多くの人が訪れます。
義経と弁慶の肖像や画像
中尊寺には義経の肖像と、弁慶を描いた画像が所蔵されています。
岩手県内外の義経ゆかりの場所
岩手・青森・北海道
平泉で亡くなったとされている義経ですが、実は生き延びていたという説があります。
平泉を脱出し生き延びた義経は北海道に渡りチンギス・ハーンとなったという伝説もあります。
岩手県や青森県北部、北海道の各地に義経伝説が伝えられています。
岩手県一関市
岩手県の一関市には義経に関わる場所がいくつかあります。
義経の愛馬大夫黒(たゆうぐろ・たいふくろ)は、諸説ありますが岩手県一関で育てられ、藤原秀衡から義経に贈られたと言われています。
また京都で義経と親しくしていた軍学師の娘である姫が、保存していた貴重な軍学書を義経のために持ち出したことで流罪となり、流れ着いた地で地元の人が姫を葬ったという「皆鶴姫神社」も岩手県の一関市にあります。
鎌倉
義経の墓は鎌倉にあり、首は運ばれた鎌倉から藤沢に流れ着き白旗神社で祀られ、義経と弁慶の銅像があります。
京都
京都には弁慶石という大きな石があり、弁慶の死後平泉の高館に移されたところ「京都に戻りたい」と石が泣き出し熱病が流行したことで京都に戻されたという伝説があります。
まとめ
義経が人生の中で大切な青春時代と最期の時を過ごした平泉。
中尊寺金色堂のそばで過ごしていたことを思うと、観光もより楽しく感じられます。
金色堂周辺には義経ゆかりのスポットがあるのでぜひ足を延ばしてみてくださいね。
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